豊前国 ぶぜん
九州の北東にあって、西海道に属している。まず『日本書紀』景行天皇12年(82)の記事に、豊前国の名がみえる。『豊後風土記』には、はじめ豊後国と合して豊国とよばれていたが、文武天皇(697〜707)のとき、豊前・豊後2国に分離したとある。国府は中津郡におかれ、一の宮は宇佐神宮で、式内社は6社ある。鎌倉時代初期(12世紀)、宇都宮信房をもって守護としたが確証はなく、寛喜年間(1229〜32)に九州太宰府の次官である少貳氏が豊前国守護職を兼任して、弘安4年(1281)、少貳資能が戦死するにおよんで、北条氏一門の桑田氏が豊前国守護になった。南北朝時代(14世紀)に菊池氏と足利氏方の両勢力が交錯して争ったが、のち周防・長門を制した大内氏が、守護としてこの地に勢力を拡張したが、毛利氏と争って敗れた。豊臣秀吉の九州平定後は、黒田孝高が中津にあって豊前6郡を領し、毛利勝信は小倉にあって豊前2郡を領した。関ヶ原戦後、徳川家康は、細川忠興に豊前1カ国を与え、小倉にあって36万9千石を領した。寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封されたのちは、小笠原忠真が豊前6郡、15万石を領し、小倉にあって九州探題の称があった。また小笠原長次は仲津にあって豊前3郡8万石を領した。寛文11年(1671)、忠真の嫡子小笠原忠雄は、弟真方に新墾田1万石を分譲した。享保元年(1716)、仲津藩小笠原長興は、播磨国1万石に移封され、奥平氏がこれに代わった。以後、明治の廃藩置県にいたるまで3藩が豊前国を分割領地した。幕末、幕府側の小倉藩は高杉晋作らの率いる毛利藩との戦いに敗れ、香春に退き、ついで豊津に移って豊津藩とよばれた。廃藩置県により中津県・豊津県・千束県となったが、明治4年(1871)合併して小倉県となり、明治9年(1976)、企救・田川・京都・築城・上毛郡は福岡県に編入され、下毛・中津・宇佐郡は大分県に編入された。
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