神楽かぐら


 神楽は古代鎮魂呪術であった。天岩戸神話は天鈿女の子孫である猿女という宮廷巫女が奉仕し、さらに石上物部の方法を主体として、宮中で行なわれた。それは夜に庭燎を焚いて行なう儀式である。古く神遊びと称し、神の行う神事音楽のことである。平安時代中期に、宮廷で琴を弾じて舞踊する琴歌神宴が成立したが、しだいに神前で奏じて神慮を慰めるための音楽と解されるようになった。外来の舞楽は、日本伝来の声楽にも影響を与え、神事儀礼の向上にともなって、東遊・風俗歌などの和楽が発達した。神楽はそれと別系統で、宮廷外の神人団が参入して演じた芸能に発している。神楽の語義は神遊びであり、かむくら(神座)の省略である。その神座は芸能をもって祝福に臨む神人団が奏した、芸能の神を安置した移動神座から出ているともいわれる。貞観年間(859〜76)には神楽譜の制定、長保4年(1002)、内侍所御神楽の行事が定められた。現在は12月中旬、賢所前庭の御神楽を初め、特定の宮廷祭儀に奏じられる。しかし、ほかの祭祀音楽がすべて一度は伝統が断絶しているなかで、神楽のみは連綿として受け継がれてきた。民俗芸能の神楽と区別するために御神楽ともいう。
 夕刻に、人長という主役が陪従・召人の楽人を引き連れて参入し、人長の名乗りに始まる。笛・シチリキ・琴の役を一人ずつ呼び立てて、一曲ずつ奏させる音取、歌人を加えて庭燎の曲を合奏させる寄合につぎ、阿知女作法という形式化したものながら、きわめて神秘な作法があってのち、採物歌の榊以下の歌が本方末方と左右に居並ぶ楽人によって歌われ、中間に人長の韓神の舞があり、神楽人の即興的な演技も交わって中入となる。ついで前張に入り、民謡出の催馬楽同様の歌詞が歌われて暁におよぶ。さらに星雑歌と称する一群の歌があり、最後に神上の歌で終わる。これは田楽をはじめ、現存する古い神事芸能にみられる形態である。

神楽歌
 宮中で行なわれる神楽で歌われるのが神楽歌である。神楽の中心となる採物歌と、やや娯楽的な前張歌に大別され、笏拍子、和琴、神楽笛、シチリキによって伴奏される。短歌形のものに民謡を含み、古今集や拾遺集では「神遊びの歌」「神楽歌」と収録される。

民間の神楽
 「おかぐら」とよばれ、全国的に行なわれ、その種類は多種多様である。雅楽あるいはそれに準じた種類。田楽獅子舞、または湯立を主とする系統。岩戸神楽・里神楽と称して、神楽殿において舞い、あるいは演劇的に構成された一般的なもの、または伊勢の古い代神楽をはじめ、民家を巡遊するものなどさまざまであるが、これらは祓の行事から出て、祭礼や講社の祈祷として、とくに江戸時代後期に発達したものである。九州・中国・中部・関東・東北と、地域的な類型の一群がみられ、地方的な特色を保っている。

岩戸神楽いわと
 里神楽(郷)の一種で神代神楽ともいう。天の岩戸の神話を中心に、大蛇退治その他の故事を、能に準じてパントマイム風に仕立てた神楽の総称である。天の岩戸の前での天鈿女命の舞いを神楽の起源とするという伝説が根拠である。神社の神楽殿や舞殿で全国的に行なわれ、関西および九州と関東・東北では楽器に多少の差がある。名高いものに出雲の佐陀の神能、九州日向の神代神楽、岡山の備中神楽、東京の土師流の里神楽、東北の法印神楽などがある。

平戸神楽ひらど
 平戸島は景行天皇の志式島の行宮に始まり、十城分王が中津良の白岳山上において天神地祇を祀るときに、勇壮なる踊り、雅趣の舞いをしたことによるともいわれる。旧平戸藩内の神社は祭典には必ず神前に神楽を奏する。その神楽は青竹の横笛に大太鼓の伴奏で、社人(神職)の男子が幣、扇、鈴刀、弓、鉾などを持ちも神楽歌を歌いつつ舞う。
 「わが国は四方の海までみすまるを懸けてぞ、祈る三つの宝を」、太鼓始まる。「千早振る、神の伊垣に袖さして、舞えはぞ開く天の岩戸」、四本幣と神代を偲ぶ優雅なる舞いが始まる。「水は清浄の光あり、むくくめば六根清くなる」、(荒塩舞)と禊を祓い修め、天地清浄の気をただよわせ。「幣捧くことも高天の原なれば、集まり給え四方の神々」、(二本幣)。「榊葉や、梢をもるる望月の空澄渡る御神楽の音」(八散供米舞)。舞う人、奏る人む、拝観する人、笛の鳴りと、太鼓の音に神人一体となりて溶け込み、「梓弓、雲の伊勢弓引きすべて、向かう矢の先きに悪魔来らぬ」(四弓)、「白金の目貫の太刀の七足に、紐の緒締めて我ぞ履きけり」(四剣)。弓を持ち剣を携えて、仇を払い衛をかため和やかに舞い、二剣角力神楽等は剣挙の両道の奥技を織り込み勇壮なる乱舞となり。「鉾も鉾、我持つ鉾は天にます、天の尊の天の逆鉾」(鉾舞)。「神の代を、思い渡るも久方の天の浮橋国の御柱」(神代開)と、御国静かとなり、「秋津島、国を治める政事、君が御代こそ久しかれ」(岩戸開)。「吹く風枝を鳴らさず、降雨時を違えずして、御年豊に実りこそすれ」(四剣)と国家悠久を祈りつつ舞い納む。その種24類あり、一人舞い、二人にて舞い、四人にて舞う。しかもわずか二畳の敷居内を出ず、まことに雅趣と勇武とを組みたるものである。
 この平戸神楽は正保4年(1647)、第29代藩主松浦鎮信が橘三喜(1635〜1704)に命じて創らせた。橘三喜は平戸七郎宮の詞官大鳥刑部の子で、名は美津与志という。16歳で藩主に認められ、神道学を学ぶよう命じられた。三喜の生まれる前の平戸は、海外への開かれた門戸で、長崎とともに貿易の拠点であり、切支丹禁令以後も、鄭成功が平戸で生まれるなど先進文化の移入の門戸であった。そのため藩主は、神道や仏道を関心をもち、一方、山鹿素行の弟平馬を家臣としている。三喜は陰陽説の神道家吉田惟足や吉田家に学び、諸国一宮巡詣し、神楽の研究しし、また父の出身地の壱岐神楽などを参考にしながら、藩主の命にこたえた。三喜は後年、藩邸のある江戸浅草において、神道を講義し門弟数千を養い、門人たる氷川女体神社神主武笠豊雄とともに弓矢神道を広め、69歳で没した。武笠神主家の墓地に墓がある。


関西地球散歩 旅の基礎知識より




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