神仏習合


 仏教が伝来し普及していく間に、在来固有の神道との妥協調和をはからなければ円滑にいくものではなかった。事実、当時の人々は仏を神の一種とみなしたので、蕃神とか他神・仏神などと呼んでいた。飛鳥時代、仏寺が氏ごとに建立される傾向にあったが、これも在来の氏神信仰のうえにのることにより、ようやく受容をみたことを示すようになった。仏教の趣旨から遠いような呪術的祭祀と類する御斎会・盂蘭盆会や祈雨・祈病の仏会が奈良時代行われるようになった。こうして神仏とあわせて信仰することに矛盾を感じないようにしていったが、国家政策として仏教の地位を重いものにしてゆき、神仏を同一次元におかず、上下の序列を意識していた。そのため神明が仏法をよろこび尊ぶという説明がなされ、神社のそばに神宮寺が建立された。
 平安時代初頭には、仏を尊信する神が、すすんで菩薩号を与えられ、すすんて権現と呼ばれた。菩薩や仏が仮りに神の姿になり変っているのだというわけである(本地垂迹説という)。仏を本地として神をその垂迹と仰ぐことは藤原時代に普及した。阿弥陀如来の垂迹が八幡神だとか、伊勢神宮の本地は大日如来だといわれた。そしてあらゆる神社に本地の仏菩薩を想定する風が一般化した。また、平安時代末から神道の名において、かなり性格の異なるものが発達した。それには仏教者が唱導したものと、神社関係者が仏教・道教・陰陽五行説などを混用して解釈したものや儒教、とくに宋学理気説をもって神祇を説明したものもある。
 鎌倉時代になると本地垂迹思想を精密に述べる神道理論も発達した。そして、天台宗の山王一実神道、三輪流神道の両部神道、日蓮宗の三十番神説が成立した。伊勢神宮の禰宜が出家したり、内・外宮を胎蔵界・金剛界の大日如来に比定したりした。蒙古来襲以来、日本人の神信仰が活気をていし、神が仏に優越する考え方と神国思想の発達により、神が本地で仏菩薩がその垂迹であるという反本地垂迹思想もでてきた。室町時代に入ると、吉田兼倶などが仏法は花実、儒教を枝葉、神道を根本とみる吉田神道を説いた。  江戸時代になると、いっせいに寺院勢力は俗的に強化したが、思想的・宗教的な力を喪失していき、神道家は仏教に排斥的となり、むしろ神儒習合の思想や復古神道論がでてきた。そして古学神道としての国学が盛んになるにつれて、仏教的要素を神道から払拭し、平田学派の国学は、感情的に神道の優越性を強調し、明治維新とともに神仏分離の政策が強調され、ついに廃仏毀釈の激しい動きとなった。
山王一実神道 神仏習合の神道説が流行したとき日吉山王明神に関連して、天台宗止観の諸法真空の理の空諦・万法妙有の理の仮諦・諸法実相の中諦の三諦の三つはつまり一つであるという真理を示すものとし、山字の縦の三画を三諦に擬し、横の一画は即一をあらわすものとし、王字の横の三画を三諦、縦の一画を即一に擬し、このように三諦即一の理を示すのが山王の二字であるという巧妙な付会である。

両部神道
 真言宗に関係し、密教の金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅をもって日本の神々の世界を説明する神道説である。俗に日本古伝の神に対し神と仏を習合した神道を両部神道と呼ぶのには誤りがある。文保2年(1318)の『三輪大明神縁起』が具体的に説かれた最初である。これは大神神社神宮寺大御輪寺の僧侶の手になったといわれる。三輪明神の鎮座する御室山(三輪山)の形相を真言の両部曼荼羅に擬したものである。御室山の両峰のうち、河の北の山を胎蔵界尾と称し、仏眼尊であり、南の山を金剛界尾といい、一字金輪である。峰を八葉に分かれ、谷は三鈷に象で三河の合流するところを六道という。このなかの神々は天照大神の一族で、これをもって両部曼荼羅の形をなすものという。この説が後に発展して三輪流の行事となった。

三十番神説
 一カ月30日を番代に、護国の30柱があるを善神をいう。その種類が10種ある。第1から4まで神祇家の所伝。第5は両部神道・本迹神道の所伝。第6は山門の鎮守として伝教大師が祭祀されたもの。第7は慈覚大師入唐後に勧請されたもの。第8は神祇官吉田家の所伝に基づき、日蓮が伝教。慈覚両大師の配釈を誤れりとし正し祀りしもの。第9は南楽坊良正の勧請。第10は慈覚大師入唐前に勧請したもの。30番神の名号を連ねるのは『潅頂経』からきたものといわれている。

伊勢神道
 伊勢神宮の外宮神主度会行忠(1236〜1305)が主導し、度会常昌(1263〜1339)によって大成した神道で、度会神道、外宮神道ともいわれる。その説は、神宮の歴史的信仰を中心として密教を習合としたもので、とくに内・外両宮の一致を説き、その結果とし外宮の祭神豊受大神は万物の根源たる水徳を有するものとし、これを国常立尊、天御中主神に比して外宮は内宮にもまさるものとした。この神道説は地方農村にまで行きわたせることになった。神皇一体の思想は南朝の北畠親房にも影響を与えた。この神道説を利用して地方の神社を統一しようと謀計したのが吉田神道である。江戸時代になって外宮権禰宜度会延佳(1620〜90)が、この神道説に仏教習合から脱して儒教易理の思想を習合させる内容にした。江戸時代末期になり復古神道が興こるとおのずから消滅した。

吉田神道
 京都の吉田神社の祠官吉田家に伝わり、吉田兼倶(1435〜1511)によって大成せられた唯一神道で吉田神道といわれている。また、吉田氏は本姓卜部氏であったため卜部神道ともいう。兼倶は『唯一神道名法要集』などを著わし、将軍足利義政の夫人日野富子に取り入り、全国の神社及び神官に対する勢力を扶植し、神祗伯の王家である白川家に対抗して神職社会を二分する勢力を作りあげた。吉田神社境内に斎場を設け、これに全国三千余社を祀り、ついに伊勢神宮の神霊がここに遷移したと偽わった。大胆な企ては失敗に終わったものの、地方の神社に神位を授け、神職に位階斎服の免許状を授与することは成功し、江戸時代になっても幕府はこれを黙認する形となった。

垂加神道
 江戸時代初期、山崎闇斎(1618〜82)が唱えた。闇斎は京都の針医の子で、幼時比叡山の稚子となり、寛永9年(1632)妙心寺に入り、寛永13年(1636)土佐国の吸江寺に移り禅僧になる。土佐南学派の僧慈沖・野中兼山らに接し、朱子学を修め25歳のとき還俗、京都に帰り明暦元年(1655)塾を開いた。寛文5年(1665)、会津の保科正之に招かれた際、伊勢神道や唯一神道の伝授を受け、垂加霊社の神号を授けられた。垂加神道の要素は朱子学・吉田神道・伊勢神道である。国常立尊・天照大神・猿田彦命を尊信し、熱烈な信仰と強い尊皇愛国の精神は大いに人を引きつけ、門流は大いに栄えた。門流から尊皇攘夷の先駆者竹内式部を出し、明治維新に垂加神道一派が大きな役割を担った。

教祖神道
 江戸時代末から固有の神道と仏教神道・儒教神道などを混合したもので、現世祈祷を生命とするとともに他の一面、神の教えということを説き、道徳的色彩を強くもったものである。


関西地球散歩 旅の基礎知識より




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