肥前国 ひぜん


 肥前国はもと肥後と合わせて火の国・肥国と称していたという。大化改新後の国・郡区画決定の際して肥前国となった。現在の佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県に当たる。長崎のほうは江戸幕府の天領であり、佐賀県にあたる鍋島藩だけが明治維新で活躍をした。『魏志倭人伝』にある末盧国は、唐津湾の後背地で、ここに支石墓群の分布や触角式銅剣・多紐細文鏡など大陸文化輸入の門戸にふさわしく多くの出土品がある。古墳時代に入り、帯隅山神籠石が佐賀平野に臨んでいる。『国造本紀』には、末羅・葛津立・松津・竺志米多の国造がある。国府の所在は佐嘉郡にあって、付近に尼寺・惣座・国尺などの地名を残している。『和名抄』は小城郡を国府としている。延喜式内社には田嶋坐神社・志志伎神社・荒穂神社・与止日女神社の四座がある。与止日女神社、すなわち河上神社はやがて肥前国一の宮として、その造営は一国平均に賦課する例となった。永仁2年(1294)以降は、千栗八幡宮も一の宮を称し、近世初頭、両社の間で一の宮争いを起こした。条理制の痕跡は佐賀平野に著しく、鎌倉時代から有明海の干拓がはじまった。仁安2年(1167)、平清盛の大功田に由来する杵島荘も大きな荘園であった。中世松浦郡には、松浦党と称する武士団があらわれた。室町時代には肥前国一円に勢力を振ったのは小城の千葉氏があり、千葉氏は下総国(千葉県)の出である。戦国時代に至って竜造寺氏が覇を称えた。藩制時代になると、鍋島氏(佐嘉・小城・蓮池・鹿島)、唐津は寺沢・大久保・土井・水野・小笠原の諸氏、大村は大村氏、島原は有馬・松倉・高力・松平・戸田・松平の諸氏、平戸は松浦氏、五島は五島氏が領した。ほかに長崎と七山・厳木・大川野は天領であった。浜崎と鳥栖・基山は、初め小早川氏領であったが対馬藩領になった。廃藩置県後の明治9年(1876)、三潴県、ついで長崎県に合併される。明治16年(1883)に佐賀県に分離独立した。  肥前国風土記  和銅6年(713)5月2日の命により、その後まもなく太宰府に集め、ここで編纂して撰進した。古写本は鎌倉時代の猪熊信男蔵のものがあるが、流布したのは荒木田久老が校訂した刊本にしている。肥前国11郡のうち10郡の記事が漢文で書かれている。肥君氏の先祖の服属説話や新羅征討関係、土蜘蛛関係の記事が特徴である。



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