越前国 えちぜん


 北陸道七国の一つ越前国は、加賀・美濃・近江・若狭と日本海に接する。東南に白山山脈、西南にしだいに低く、九頭竜・足羽・日野三川が貫流して三国湊に注ぐ。昔、角鹿は朝鮮との交通によって、三国は継体天皇(大迹王)迎立の地として知られる。成務天皇のとき角鹿・三国に国造があり、のち国司となる。『和名抄』の越の道の口で、道中・道尻と対称した。持統天皇6年(692)9月に「越前国司献白蛾」とうるのが初見とし、養老2年(718)、越前国羽咋・能登・鳳至・珠洲4郡を割って能登国を建て、弘仁14年(823)、さらに江沼・加賀2郡を分けて加賀国を置いた。越前国は令制大国、国府・国分寺は丹生郡(武生市)、一の宮は気比社、守関(愛発関)の国であった。中世荘園はおよそ104を数える。鎌倉時代の守護は比企朝宗ののち、島津・後藤氏相次ぎ、足利尊氏は斯波高経を派し、延元中(1336〜39)新田義貞、皇太子恒良親王、尊良親王を奉じて敦賀金崎城に入り、国人瓜生保・重兄弟が杣山に応じた。やがて義貞は藤島に滅んだ。守護義将は京師に管領となり世襲した。甲斐祐徳が守護代になり、朝倉氏は坂井郡黒丸にあった。義将6世義敏になって、甲斐氏に擁立されたが、これが善からず、甲斐義廉と内訌して応仁の乱に入った。朝倉孝景は、これに乗じて文明3年(1471)、ついに守護となった。この年に一乗谷に移り、以来5代103年にわたり越前国の中心となった。一向一揆・甲斐余党との争闘が絶えず、義景になって織田信長と軋轢があって自尽した。越前平定後、柴田勝家が北荘50万石に封じた。天正11年(1583)羽柴秀吉に滅ぼされた。慶長5年(1600)、徳川家康の2子結城秀康を68万石に封じた。3代忠直に罪あり豊後に配され、忠昌が50万石を受封した。寛永元年(1624)北荘を福井と改めた。貞享3年(1686)大法あって25万石に削封した。その後、福井32万石松平氏・丸岡5万石有馬氏・大野4万石土井氏・勝山2万2000石小笠原氏・鯖江4万石間部氏・鞠山1万石酒井氏の6藩ほかに幕府直轄領で明治に至る。  福井県 若狭・越前の二国を管轄区域としている。明治3年(1870)、明治政府は幕府直轄地を本保県とし、その翌年廃藩のとき福井・丸岡・大野・勝山・鯖江・小浜の諸県を置いた。同年11月小浜・鯖江を併せて敦賀県、他の5県を併せて福井県とし、同年12月福井県を足羽県と改めたが、同6年(1873)足羽県を廃して敦賀県に併せた。同9年(1876)敦賀県を廃し、越前7郡を石川県に、越前敦賀郡と若狭を滋賀県に合併。同14年(1881)改めて福井県を置き、若狭・越前を管轄することになった。藩政時代の奉書紬を源流として絹製品で織物王国の名がある。



一の宮とは

旅の基礎知識
鳥 居
神と神社
物忌・禊・大祓
古代信仰
天津神
延喜式
祝 詞
神仏習合
神社建築
神楽

関西地球散歩より

旅の福袋

お申込方法 

0ファックス申込用紙 

0