蝦夷国 えぞ
古代日本の東北部に住み、関西から異民族視されていた人々を蝦夷・えみし・えみす・えびすとか、語源には姿がエビにているためとか、アイヌ語でカイ、すなわち自分といったのを音訳したものなどの説があったが、アイヌ語の人間の意である。大和を中心とした国家ができた当時は、坂東および信濃川以東の地にとどまっていた。『日本書紀』に「冬は穴に宿、夏は樔に住む」と、夷・狄ともつくり、『宋書』には毛人とある。大和朝廷の討伐、懐柔の対象となり、大化の改新期にはほぼ今日の東北地方に後退した。中世にかけて一般日本人と同化し、明治時代になると、この名称は全く使われなくなった。
蝦夷征伐 『日本書紀』の景行天皇27年(97)春2月、武内宿禰が東国視察から帰って「東夷の中に日高見国があり、その国の人は男女とも髪を椎のような形に結び、身体に入れ墨をして、勇猛で、これをすべて蝦夷といっている。土地は肥沃で広大である。攻撃して奪い取ったらいい」と、奏上したことは、蝦夷征伐に関する最初の記録である。これに対し、蝦夷とよばれた東北人は、侵略に頑強に抵抗し続け、屈服しようとしなかった。大化の改新(645)によって律と令で支配する国家体制が実現した。はじめて国郡制がしかれた。このとき東北を道奥国と書き、大宝律令制定(701)とともに陸奥国と書くようになった。そのときの日本は倭国であった。倭人が文献に現れたのは『漢書』地理志の記事である。大宝2年(702)、中国に到着した大和朝廷の使者は、唐の国号を周と改めた則天武后に対して、「倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と答えたといわれる。則天武后はこの国号を認め、以後、中国の王朝は「日本伝」とするようになった。
蝦夷の抵抗 東北南部に石城・石背の両国を建て、神亀元年(724)に多賀城を築城し、さきの両国を吸収して陸奥国府を置いた。多賀城の武力を背景に宮城県一円の建郡を終え、さらに桃生城(759年)を設けた。さきの秋田城(733年)とともに北方への圧力を強め、一部岩手県南部まで進出した。これに反発した蝦夷は、宝亀5年(774)、桃生・胆沢城を攻撃し、多賀城を焼いた。ここに「38年戦争」といわれる長期の戦争が始まった。
平安時代 桓武天皇は、本格的に大軍を派遣するが大敗を喫した。さらに延暦16年(797)、坂上田村麻呂を征夷大将軍にして討伐、撃破し、延暦21年(802)、胆沢城を築き本拠にして鎮守府兼国府をここに移した。翌年、さらに盛岡近くに志波(斯波)城を築き、この間を準内郡とした。弘仁元年(811)、征夷大将軍文室綿麻呂は、閉伊・爾薩体(岩手東北部)まで征討したが、東北最北部を支配下に置くことのできないまま、蝦夷と妥協した。奥六郡・山北三郡は国制のもとに入ってが、事実上、東北は「俘囚の地」であり、岩手県・秋田県の北部から下北・津軽にかけての地は、国郡の制がおよばなかったが、蝦夷征伐の歴史は大体終わった。『延喜式』によると、こうして開拓された陸奥国の郡は35、古代では他に比をみない巨大国をなした。そこに原則として郡郷制がしかれ、口分田制も行なわれ、租庸調の税制も実施された。
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