播磨国 はりま
この播磨国に人類が住み始めたのは旧石器時代で、明石原人の遺跡は明石市の西郊に残っている。新石器時代に入ると、縄文遺跡や弥生遺跡が広く分布し、銅鐸も発見されている。4世紀になって西日本の統一が完成されたころ、針間・鴨・赤石(明石)の3国がおかれ、成務天皇の時、針間国 造に伊許自別命、鴨国 造に市入別命が、応神天皇の時、都弥自是尼が赤石国造に任命された。壇場山(姫路市)・玉丘(加西町)・五色塚(神戸市)などの前方後円墳は、これらの人たちの墳墓といわれている。古来の瀬戸内海航路の要津として室津・播磨津・高砂などがさかえた。大化の改新(645)によって播磨国は11郡に分けられ、国府は播磨郡(姫路市城東町)に置かれた。元明天皇が和銅6年(713)、諸国をして、その国の産物、地味の良否、地名の起源、古老の伝承などを史籍に載せて言上させた「風土記」は、霊亀元年(715)までの間に成立した。その中の『播磨風土記』が残っている。このほかに現存するのは本書と出雲・常陸・豊後・肥前だけにすぎない貴重な史料である。6世紀の初めに伝えられた仏教は、聖徳太子の保護によって急速に広められ、加古川と揖保川の下流には法隆寺の寺領があった。国分寺は姫路の東郊に建てられた。山陽道の整備、播磨灘航行の便を図って行基の定めた五泊などがある。平安時代になると、山岳仏教の書写山円教寺、法華山一乗寺、御岳山清水寺などが栄え、神社では一の宮伊和神社以下52社が『延喜式神名帳』に載せられた。国司として菅原是善・在原行平・藤原保昌がいる。やがて藤原氏や賀茂神社・住吉神社・男山八幡・法隆寺・東寺・東大寺などの荘園が広大な地を占めた。鎌倉時代になると、播磨国は大国であったので守護に梶原景時・小山朝政のような有力者が赴任し、地頭には相模国の御家人が多く来た。建武年間(1334〜36)に新田義貞が守護に補され、まもなく足利尊氏は赤松則村をもって代えた。南北朝時代50余年は戦乱が絶えまなかったが、、この間、赤松氏の勢力が著しく伸び、室町時代に入ると赤松一族が国内に広がり、声望と実力をもつようになった。やがて下克上の風潮が強く、赤松満裕が将軍足利義教を殺した嘉吉の乱(1441)後の播磨は、山名宗全に与えられた。応仁の乱(1467〜77)が起きると、赤松政則が播磨に攻め入り、旧領を回復した。三木城の別所氏、三石城の浦上氏などは赤松氏の命に従わず戦乱をくりかえしていた。赤松氏は家臣の浦上氏に叛かれ、ついに浦上氏もまた家臣の宇喜多氏に追われた。天正5年(1577)、播磨に兵を進めた豊臣秀吉が、別所氏などの反抗者を一掃し、全播磨を平定した。天正8年(1580)、信長から播磨を与えられた秀吉は、姫路に新城を築いて拠点とした。しかし本能寺の変後は、秀吉は大坂城を築いて拠点としたため、姫路は弟の豊臣秀長を52万石に封じ、ついで一族の木下家定に代えた。その後徳川家康の覇権を確立することになって播磨国は、池田輝政に与えられ、輝政は現在見るような大規模な姫路城を築いた。慶長18年(1613)、輝政は病没し、利隆・忠継の2子に分与された。しかし元和3年(1617)、利隆の子光政が鳥取城へ所替を命じられて、本多忠政が姫路城主となった。それ以後、播磨はしだいに小さく分けられ、諸候領と天領・旗本領が錯綜するようになった。大名は姫路城の酒井家(15万石)、明石城の松平家(8万石)、竜野城の脇坂家(5万3千石)、赤穂城の森家(2万石)のほか、三日月・山崎・安志・林田・粟賀・小野・三草などの諸藩があった。
兵庫県
明治4年(1871)廃藩置県によって兵庫・姫路・豊岡・名東の諸県が置かれた。播磨全域は姫路県となり、つづいて播磨県と改称され、明治9年(1876)にこれらがほぼ今日の兵庫県として合併された。地勢は中国山脈の東端に入って播但山地を形成し、地形はきわめて複雑化している。播磨平野は東西約40km、南北約10kmにわたって広がり、播但山地に発する加古川・市川・夢前川・揖保川などが南流して播磨灘の陥没地に注入し、堆積によって複合三角洲平野を作る。しかし一望の沖積平野ではなく、東部の加古川下流に展開する印南野と、中部の市川・夢前川下流の中播平野あるいは姫路平野と、西部の揖保川下流の西播平野でからなり、いずれも播州米の産地として知られている。
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