飛騨国 ひだ
飛騨は岐阜県の北半を占め、東に海抜3000m級の飛騨山脈・日本アルプス、西は白山火山脈の間に広大な飛騨山地を形成し、その間にいくつかの山間盆地を含んでいる。とくに飛騨盆地・古川盆地は飛騨国の文化・経済の中心をなしている。乗鞍岳より位山にいたる分水嶺は、風土・人文の境界線でもある。南の口飛騨は太平洋に注ぐ益田川(飛騨川)流域、北の奥飛騨は日本海に注ぐ宮川・庄川・高原川流域をなしている。高山盆地・古川盆地は縄文式、弥生式の石器・土器、とくに精巧な磨製石器を多く出土し、古墳の数も多くあって古代から文化の中心地であった。『日本書紀』に飛騨の名があるが、斐陀、斐太の語もある。和銅年間(708〜715)以後飛騨に一定された。牧馬もさかんで、大宝2年(702)神馬献上以来、定期的に馬を貢上していた。賦役令により調庸とも免じられ、里ごとに匠丁を出し、彼らは平城・平安京の造営に手腕をふるい飛騨工の名をあげた。鎌倉時代に地頭として源貞康・多好方の名がみえる。南北時代には姉小路家綱が飛騨国司に任ぜられ、30余年間南朝方として北飛に活躍し、室町幕府方は佐々木高氏(京極氏)を守護に任じ、南飛を支配した。応永年間(1394〜1428)以降、古川盆地は姉小路氏(小島氏)、南飛騨の京極氏、吉城郡高原川流域の江馬氏に三分された。応仁の乱(1467〜77)は、東軍は京極氏、西軍は小島氏で戦ったが、やがて京極氏の被官三木隆盛が織田信長に服属して諸豪族を倒し、白川を除く飛騨一円を支配した。白川は文永年間(1264〜75)嘉念坊善俊が鳩ヶ谷に浄土真宗の道場を設けて、白川を勢力下におき、真宗の祖となった。子孫は内ヶ島将監と争って敗れたが、蓮如の調停により和平通婚し、永正元年(1504)道場を再開、照蓮寺となった。天正14年(1586)金森長近は豊臣秀吉の命により飛騨に入り、三木氏を滅ぼし、飛騨三郡を拝領、高山城を築いた。元禄5年(1692)、金森氏は出羽上山に移封され、飛騨は江戸幕府の天領となった。飛騨は米不足を補うため、金森時代以来、山間の米の収穫の少ないところを考慮した御救元伐制、享保年間(1716〜36)以来の人別米、安石代金納などの特殊の制度があった。金森時代、成田三休の始めたという春慶塗や、中世以来、山地を移動する木地屋の木工品があった。明応年間(1492〜1501)に開かれた和佐保銀山、寛永年間(1624〜44)茂住宗貞の開発した茂住銀山など、いまの神岡鉱山を中心とする銀・銅・鉛や生糸の生産があった。明治維新の夜明け、官軍東征軍先鋒隊は美濃笠松郡代所に進駐、つづいて鎮撫使竹沢寛三郎の飛騨入国が伝えられると、新見高山郡代は事態の収拾ができず、手代に後事を託して、ひそかに江戸に逃れた。ここに高山陣屋は終焉を告げた。明治元年(1868)高山陣屋は廃止され、5月飛騨県、6月高山県となった。明治4年(1871)廃藩置県に際して高山県を廃して、筑摩県管下に入ったが、明治9年(1876)筑摩県を廃止して、長野県を置くにあたって岐阜県に合併された。
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