肥後国 ひご


 古代は火の国、肥国といわれた。火の国の起源は『日本書紀』に、「景行天皇18年(89)5月1日、葦北から船出して火国についた。ここで日が暮れた。暗くて岸につくことが難しかった。遥かに火の光が見えた」。天皇はその国を名づけて火国とした。また、『肥後風土記』には火 国 造の祖先神話とし、八代郡肥伊郷の氷川(宮原付近)の地名からおきたとされ、ここに国造がいたと考えられている。肥国(火の国)から肥前・肥後が分かれた時期は明らかでないが『日本書紀』の推古天皇17年(609)4月4日、筑紫太宰府の長官が奏上して、「百済僧道欣・恵弥を頭として僧10人、俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊している」とあるのが肥後国の初見である。肥国の国名の前・後の区別は、太宰府から、その国の国府までの距離による。5〜6世紀ごろ八代郡にあった肥国の中心は、しだいに北上して益城郡に移り、奈良時代には託麻郡に国府ができ、平安時代には飽田郡に移っている。中世を通じて菊池・阿蘇両氏が活躍するが、南北朝時代にかけ、しだいに衰え、代わって城・宇土・隈部・和仁・大津山・辺春・鹿子木・出田・小代・高森・志岐・大矢野・天草などの各氏が台頭、52人衆時代を生んだ。このころの肥後は、大友・島津・少弐・竜造寺らの強豪の争奪の地で、多くの中・小土豪は自己の去就に苦心した。天正15年(1587)、豊臣秀吉は、九州を征伐し、天草・球磨両郡を除いた肥後全土を佐々成政に与えたが、成政の失政のため国人一揆が起こり、その結果国人52人衆は領地没収、成政は切腹と、秀吉のねらいどおり土豪勢力と旧織田信長部将の両者を一挙に整理した。翌年小西行長は宇土・益城・八代の3郡24万石、加藤清正は残り9郡25万石、ただし球磨郡は中世以来の相良氏が2万2千百石、天草は土豪の5人衆に、それぞれ安堵した。関ケ原役後、家康は清正に小西領を与えたので、慶長6年(1601)、清正は茶臼山に籠り、慶長12年(1607)、そこを中心に現在の熊本城が完成し、隈本を熊本に改めた。寛永9年(1632)、加藤家改易後、細川氏が54万石の領主として入国し、肥後国は、細川領、相良領、天草の天領の三分の形で明治維新を迎えた。  肥後国の古墳  古墳は約13000か所、日本全体の24%を占めている。熊本県の古墳文化の特色は装飾古墳とともに石人の存在である。荒尾市の三宮古墳、山鹿市のチブサン古墳、菊池市の双塚古墳の石人は知られている。  前期古墳(3〜4世紀) 宇土半島に多くの前方後円墳があるので、「火の国」の所在地ではないかといわれている。代表は弁天山(不知火町)・迫の上・向野田(宇土市)などの前方後円墳で、内部は竪穴式石室である。竪穴式石室としては、別当家(荒尾市)・竜王山(山鹿市)・大鼠蔵(八代市)などがある。  中期古墳(5世紀) 岩原双子塚(鹿央町)・長目塚(一の宮町)・船山(菊水町)など中期古墳がある。  後期古墳(6〜7世紀) 円墳群や巨石の横穴式石室、装飾古墳・横穴群が多い。巨石の横穴式石室の大野窟(竜北町)が代表的で、八代地方に多くある。  装飾古墳 全国で484基余あるなか、186基(1992年)があって全国一位である。幾何学文様・具象画なとを彩色した菊池川流域、線彫で船などを描いた宇土半島、円文を主体とする八代平野などに大別できる。靫と幾何学文様の調和している千金甲(熊本市)がある。具象画は、チブサン・弁慶ヶ穴(山鹿市)に代表される。線刻の船は仮叉(宇土市)・桂原(不知火町)。円文様は、五反田・田川内(八代市)・大戸鼻(天草松島町)がある。凝灰岩を刳り貫いた横穴式は各地にあって装飾をもつものも多い。石貫穴観音・石貫ナギノ・鍋田・長岩(玉名市)・桜の上(鹿央町)・城(山鹿市)・大村(人吉市)・京ガ峰(錦町)などの装飾古墳がある。  地下式積石墓 人吉・芦北地方にある。妻ノ鼻(本渡市)は30余基の群集墓である。  方形周溝墓 塚原古墳群(城南町)のなかに発見された。これは弥生時代と古墳時代の墓制を関連づけるものとして注目されている。



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