筑後国 ちくご
西海道にある筑後国は、北九州の筑後川流域をしめる。珍敷塚・鳥船塚・日岡古墳など装飾古墳が多い。継体天皇のとき、新羅と通じて内乱を起こした筑紫国造磐井の本拠地であった。527〜528年、大和政権と争って敗れた磐井の墓は、岩戸山古墳にある。はじめ筑紫後国と号していたが、7世紀ごろから筑後の2字を用いた。国府は御井郡府中(久留米市合川町枝光)にあった。最初の筑後守は大宝律令撰定者の一人、道君首名である。鎌倉時代初期、草野永平が在国司職を源頼朝から安堵されてたが、まもなく大友能直が守護となった。建武中興に際し小弐頼尚が守になって守護を兼ねたが、足利尊氏が反すると尊氏に属した。正平年間(1346〜69)、肥後の菊池武光、西征将軍良成親王を奉じて北上し、頼尚を破り、在地の武士を下して高良山に陣をしき、ここを基地として太宰府を奪回した。しかし今川了俊が九州探題となって下向すると、たちまち追い出された。菊池氏の本拠の肥後をも追われた西征将軍良成親王は、八女郡矢部の山中に、その存在をつづけた。室町時代になると、九州探題の威も衰え、国内の諸豪族が割拠した。やがて永禄7年(1578)、大友宗麟が大挙して侵入し筑後を勢力化においた。天正6年(1578)、日向の耳川の戦いで島津氏に、大敗した大友氏は筑後の武士たちも離れた。肥前国の竜造寺氏が勢力をおよぼしたが、のちに島津氏に侵入された。天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州を征服し、筑前は小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包、筑紫広門などに与えた。関ヶ原戦(1600)のあと、これらの諸将はみな封地を奪われ、田中吉政が柳河に封じられた。吉政は嗣子がなかったため取り潰しとなり、代わって有馬氏が久留米に、立花宗茂がふたたび柳河に封じられ、三池藩1万石を成立させた。明治の廃藩置県で久留米県・三池県がおかれ、ついで統合されて三瀦県となり、明治9年(1876)に福岡県に統一された。
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