日向国 ひゅうが
日向国は西海道の一国で、承平年間(931〜38)につくられた漢和辞書の『和名類聚抄』(和名抄)には「比宇加」と読んでいる。景行紀に「この国は直に日の出づる方に向けり。故に其の国を号けて日向と曰う」とある。宮崎海岸平野に立っと、はるか洋々たる海原から昇る朝日は、この命名の自然さがうなづける。古代の日向国は九州東南部をさしている。そのうちに薩摩・大隅も含まれていた。『続日本紀』の和銅6年(713)4月の条に、「肝坏、噌於、大隅、姶羅の四郡を割いて大隅国を置く」と明記している。薩摩・大隅の2国の設置により日向国の境界が固定した。北と西と南の一部には山脈が重なり豊後・肥後・大隅と国境を画し、その内側に東面している明るい国柄である。ここを舞台として天孫降臨から日向3代の日向神話が展開する。『古事記』『日本書紀』の神話は高天原神話・出雲神話・日向神話から、やがて大和朝廷が成立する。日向国には、天孫降臨の地として各種の神話が残っている。瓊瓊杵尊が天降ったという西臼杵郡高千穂町、霧島山系の高千穂峯の伝承がある。天照大神の岩戸隠れの伝承をもつ高千穂町の岩戸神社、神武天皇東征、景行天皇の熊襲征討の伝承などが各地に、神話・伝承として残っている。西臼杵郡日之影町の出羽洞穴遺跡で発見された石器は、前期旧石器のものではないかといわれる。五箇瀬川および大淀川の川筋には、貝塚や縄文土器も出土している。これらの層の上に、弥生土器が重なっているのがみられる。次の古墳時代に入ると、日向文化はにわかに活気を呈する。
宮崎県下では4000基の円墳・前方後円・方墳・横穴式の大小の古墳がある。このことは、かつて日向の地が日本文化の一中心地であったことを示している。古墳の壮大なものは大和の天皇陵にも匹敵する規模を備え、その形式・内容ともに大和地方のそれに近似している。景行天皇が日向髪長大田根媛を、応神天皇が日向泉長媛を、仁徳天皇が諸県君牛諸井の女髪長媛を、それぞれ妃としている。
大化改新(645年)から奈良・平安時代にかけての日向の動静は明らかでない。『延喜式』では臼杵・児湯・那珂・宮崎・諸県の5郡、中国に挙げているが、国府の所在は児湯郡妻町三宅(西都市)が有力視されている。日向国一の宮は、都農神社で祭神は国つ神の出雲国の大己貴命(大国主)を祀っている。律令統治も大宰府を介しての間接統治であったことから、とかくゆるみがちである。日向守に任じられることは、遠島にも等しかった。天平勝宝7年(755)、陸奥の俘囚大伴部阿弖良が罪を犯し、親族66人とともに日向に配流されるなど、奥州地方からの強制移民もみられる。やがて私領荘園を発達させることになった。なかでも摂関近衛家の島津荘、宇佐領、八条女院領の国冨荘など全国稀有の荘園国となった。
鎌倉幕府は武家の支配を強化すべく、諸国に守護、荘園に地頭をおいたが、武家勢力の伸長によって、権門勢家の荘園支配は薄れ、在地地頭などによって荘園の私領化が進行した。南北朝時代は荘園の崩壊期で、これから250年は、荘園村落の争奪をめぐって争乱止むことなく、国人は戦渦にさらされた。この争乱で勢力を扶植した第一人者が源氏の御家人工藤祐経の子孫といわれる都放郡地頭の伊東義祐で、永禄11年(1568)、日向一円を手中に収めたが、いくばくもなく島津氏の侵入で、豊後に落ちのびた。伊東氏に代わった島津氏も、豊臣秀吉の天正15年(1587)の九州平定を機に、4つの小藩に分割された。秀吉に従軍した伊東義祐の子祐兵は、旧領の一部の飫肥に、豊前の高橋氏、筑前の秋月氏は、新たに延岡と高鍋に配置された。島津氏は佐土原・都放郡など、そして鹿児島の島津氏もほぼ本領を認められた。
江戸時代もほぼこの勢力圏のまま、延岡藩・高鍋藩・佐土原藩・飫肥藩・鹿児島藩、そして人吉藩の領地・属地となった。椎葉山・米良山、さらに富高・宮崎・本庄などは天領となった。これらの諸藩の編成には大変なく、ただ延岡藩のみが高橋・有馬・三浦・牧野の4氏を経て、内藤氏のときに廃藩置県を迎えた。明治4年(1871)、各藩は解消し、美々津・都城2県となり、明治6年(1873)に両県を併せて宮崎県とし、肥後人吉藩の付属地であった米良・椎葉地方を編入したが、越えて明治9年(1876)、宮崎県を廃して鹿児島県に合併、その後日向人の熱願が容れられ、明治16年(1883)に宮崎県の再置をみた。このとき日向国のうち、志布志郷・大崎町・松山郷は鹿児島県に残った。
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