三河国 みかわ
東海道15の国の一つで、東は遠江国(静岡県)、北は信濃国(長野県)・美濃国(岐阜県)に連なり、西の北半は尾張国(愛知県)に接し、南半は海をへだてて尾張国の知多半島に対し、南は遠州灘にのぞみ、東から西へ横たわる渥美半島は渥美湾をいだき、その先端は志摩半藤と相対して伊勢湾の口を形づくっている。北部は木曽山脈の山岳地帯で、ここに源を発する豊川と矢作川は、諸支流を合わせて下流域に平野をつくり、それぞれ東・西三河の開発の中心となってきた。東西三河にはそれぞれ穂国造と三河国造があらわれ、穂には宝飯郡の名がある。これに渥美半島を加えて国内は3区域となり、互いに地域差をつくって歴史的にも特色がある。伊勢・志摩とは海上を通って東西の文物が交流し、早期に接触してきた。渥美半島の吉胡貝塚は縄文時代の甕棺と人骨を出し、豊川流域の瓜郷遺跡には弥生時代の住居跡があり、貞観2年(860)には渥美郷で銅鐸出土の記録がある。延喜3年(903)宝飫郡の北部をさいて設楽郡を置いた。国府・国分寺は宝飯郡に、遺跡は豊川市にある。和銅年間(708〜14)から錦綾の機織を国営と、調として良質のものを納め、東三河の赤引糸は伊勢神宮の神衣祭に、西三河の犬頭糸は天皇御服調製用とした。渥美郡内には陶器の窯跡が散在し、東大寺大仏殿の瓦などがつくられた。建久3年(1192)の調査で伊勢神宮の神戸・御厨・御園が12ヶ所、のちに39ヶ所にもなった。源頼朝は弟範頼を三河守に推し守護に安達盛長とした。のち足利氏の世襲となった。足利幕府のころに一族の吉良・今川・仁木・細川・一色の諸氏が三河に根拠をもち要職についた。将軍義教は一色義貫を誅し、細川持常を守護とした。応仁の乱で山名方に属した一色義直が守護に対抗する勢いもった。その前後から松平信光が幕臣伊勢貞親の被官として現れ、子親忠が安祥城(安城市)により、家を長親に譲って岡崎城に移った。これが徳川氏の先祖で、しだいに西三河に勢力を広めた。駿河の今川氏は牧野成時に吉田城を築かせ、三河侵略の拠点としたが、松平氏は清康とのき岡崎城を本城として吉田城を攻略し、東三河の土豪は相次いで帰服した。その後、尾張の織田氏が西三河を侵入し、清康は内訌のため殺され、子広忠がついで伊勢に走り、今川義元の援助をうけ、やがて岡崎城にかえった。その後、三河は東西から今川・織田氏の侵入にあい、これがため内部分裂をくりかえし、広忠は家臣とともに苦難をかさねた。子家康は幼少から艱苦をなめ、桶狭間の戦いで今川義元が敗北したのち、織田氏と連合し、着々と三河国内を平定し、今川氏を攻めて遠江をとり、浜松城に移り、岡崎城には子信康をおいた。豊臣秀吉は家康を関東に移したのち、池田輝政を吉田城、田中吉政を岡崎城に封じた。関ヶ原役後、家康は池田・田中氏を移封して、丹羽氏次を伊保、松平家清を吉田、本多康重を岡崎、本多康俊を西尾、松平忠利を深溝、戸田尊次を田原、松平忠明を作手にすえ、水野勝時をもとのまま刈谷におき、国内に八家の譜代大名を配置した。のちこれらの藩主にも変遷があり、そのほかに神城・形原・足助・大浜の諸藩が短期間おかれ、挙母・大給奥殿・西大平などの藩もできており、さらに幕府直領と旗本領と他国大名領とが複雑に混在していた。幕末には奥殿は廃され、西端がおかれた。前後を通じて18ヶ所に大名が置かれたことがあり、52氏の多きにのぼった。転封や廃藩の度数は他に比をみない。このことは三河の開発に影響するところが大きい。明治維新には吉田を豊橋と改め、重原・半原両藩を加えて10藩が存在した。旧幕府領は、このとき伊奈県に合併された。豊川・矢作川に沿って交通路がひらけ、信州中馬・三州馬稼ぎの陸運も発展し、渥美湾沿岸諸港の海運も発展し、物資流通や肥料の移入も行われた。所領関係が複雑なため概して水田の開発がおくれ、明治以後になって、西三河は明治用水の完成により、日本のデンマークといわれるようになった。
愛知県 明治4年(1871)廃藩置県とともに10藩が県となり、やがて合併とて額田県となり、治所は岡崎に置かれ、ついで伊奈県に合併された地域をこの県に合わせ、三河一国が統一された。同5年(1872)に額田県を廃して愛知県に合併した。
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