長門国 ながと
山陽道の最西端、下関海峡を隔てて九州に対する一帯は、古代、穴門国造の部内であったが、大化改新に際し、北東の阿武国造と合して穴門国が置かれ、やがて長門国と改められた。長門国の国府は、下関市長府町忌宮神社付近で、仲哀天皇の穴門豊浦宮のあったところである。その位置は西南に偏しているが、瀬戸内交通の要路として穴門国造の中心として繁栄していたものによる。長門国は朝鮮半島に近く、天智天皇2年(663)日本軍が百済の白村江において唐軍に敗れ、日本軍は百済の遺民とともに帰国する。天皇は唐・新羅軍の来攻に備えて筑紫とともに長門に一城を築かせ、国土防衛の第一線とさせている。貞観年間(859〜876)にも新羅人の近海出没の噂があって、外敵を調伏せしめるため伯耆・出雲・石見・隠岐の四国とともに、長門国にも四天王寺が営まれた。
奈良時代から平安時代に長門鋳銭司が置かれ、国司が鋳銭役を兼ねていた。『延喜式』によれば長門国は遠国に数えられ、京都から国府まで上り21日、下り11日となっている。源平時代、平氏は串崎海賊の根拠地とし、九州の咽喉に当たる長門国を有力な地盤としていたが、壇ノ浦合戦後、頼朝もこの地の重要性をみて、守護の人選は慎重で、はじめ土肥実平を守護とし、つづいて佐々木高綱をこれに代えた。
文永年間(1264〜74)蒙古来襲に際し、警固使が置かれた。建治元年(1275)北条宗頼が長門探題に任ぜられ、以後、北条一門の世襲として中国一円をも管轄せしめた。北条氏滅亡後、正平4年(1349)、足利直冬が補せられ、長門国守護職には建武中興の功によって建武元年(1334)厚東武実がこれに任じ、武村・武直・義武と世襲した。周防国守護大内弘世が義武を撃って長門国を平定し、以後七代にわたり大内氏が長門国の守護を兼ねた。天文20年(1551)大内義隆が陶晴賢の乱によって長門国深川大寧寺に自害し、安芸の毛利元就が晴賢を討ってこれを滅ぼして、周防・長門両国は毛利氏に帰した。毛利輝元は関ケ原の役で西軍に属したため、中国10か国の所領を削られ、その子秀就が防長二国36万9000石に封じられ、居城を長門国萩指月山に築いた。文久3年(1863)、毛利敬親は居を萩より山口に移し、明治4年(1871)廃藩置県によって山口・豊浦・清末の三県が誕生したが、同年、長門国と周防国が山口県となった。
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