大隅国 おおすみ
西海道の一国で、九州南端の大隅半島を主要部とし、ほかに南方海上の種子島・屋久島・奄美大島などの大隈諸島や、徳之島その他の諸島を含む。もともとは日向国の一部をなし、襲ノ国ともよばれ、熊襲ないし隼人の根拠地であった。大隅の国名のはじめてみえるのは、『国造本紀』であり、景行天皇の世に、大隅国造を定めたとあるが、『続日本紀』によれば、和銅6年(713)に日向国の肝坏・贈於・大隅・姶羅の4郡を割いて大隅国がおかれたとなっている。この7年後の養老4年(720)に隼人の反乱が起きた。その後、天平勝宝7年(755)に贈於郡を割いて菱刈郡がおかれ、ついで桑原郡がおかれた。天長元年(824)には多祢国を廃して熊毛など2郡として大隅国に合わせ、8郡となった。薩摩国にはほとんど古墳がみられないのに対し、大隅国には約200基の古墳があって、肝属川下流に集中している。古墳の構造は畿内のものに類似している。国府は姶良郡国分町府中におかれた。大化改新(645)によって古代国家の体制が確立されたときも、その力が十分行われず、班田収授も長く行われず墾田によっていた。墾田にも租が課せられ、開墾者の占有権は保証されなかったが、人口の増加や農民の抵抗によって公田が不足しはじめると、朝廷は養老7年(723)、三世一身法、天平15年(743)、墾田永世私有法で占有権を認め、墾田の増加を図った。このため荘園が発生し、やがて土地公有の原則がくずれ、律令制は維持できなくなった。延暦19年(800)に墾田(新田)を収めて班授することにしたが、旧来の墾田に戻り、地方豪族の任せられていた。豪族は社寺権門に寄進し、多くの荘園が生まれた。その最大のものが近衛家に属する島津庄であった。
鎌倉時代になると、島津忠久が島津庄下司職として入国し、やがて大隅・薩摩・日向の守護となった。南北朝時代の動乱期には、幾多の変動があったが、その後、島津氏は3国内の諸族を降して領国支配を完成した。豊臣秀吉の天下統一に際して、島津氏は秀吉に抵抗して豊後に侵出し、鎮西に覇を唱えようとしたが、天正15年(1587)、九州征討に逢って屈服し、その所領は安堵された。以後、江戸時代を通じて大隅国は島津氏の所領として持続した。島津藩は封建的支配の特徴をなす郷士制度と門割制度を維持し、中期以後は商品経済の発展に伴い、領主側の殖産興業政策によって甘蔗栽培(製糖業)・菜種製油・製蝋・樟脳採取など特殊な産業が、藩の強力な統制下に発展した。なかでも島嶼における砂糖専売政策の重圧は厳しかった。このような特産の発展は、この地域が広く火山灰土壌におおわれて、水田に乏しく、しかも温暖な気候に恵まれ、さらに島津藩が強力な封建支配をもって商品経済の利潤を吸い上げようと、積極的な殖産につとめたからである。明治維新後の廃藩置県によって、明治4年(1871)、鹿児島藩は鹿児島県となり、大隅一円もそれに属した。
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