琉球国 りゅうきゅう
沖縄諸島は北緯27度と26度の間、北東から西南にかけて延長約110km、幅は最大でも30km弱の細長い島だが、面積は約1200平方kmあり、九州以南の南西諸島のなかでは最大の島である。北部は標高498mの与那覇岳を最高とする古生層山地と、その周囲の台地状の海岸段丘からなり、一部に隆起サンゴ礁・沖積地が発達している。中部・南部は隆起サンゴ礁台地と第三紀層よりなっている。海岸には黒潮が流れ、サンゴ礁が発達し1年のうち8ヵ月は20度以上、冬も16度程度の気温で亜熱帯植物が茂る。夏は東南、冬は北東の季節風が吹き、7~8月は台風季節で被害が多大である。
流求」という島
中国の『隋書』東夷伝(636年)に「流求」という化外の国あり、と記されている。それには中国福建省の東海上にあることや、自然・風俗などの記されている。また、随の煬帝が2度にわたり遠征軍をおくったが従わず、遠征軍の持ち帰った布甲(よろい)を、倭国の使者小野妹子一行に見せたところ「夷邪久国(掖久)の人の用いるもの」教えてくれた事などがある。これには沖縄説、台湾説などがある。また『日本書紀』『続日本紀』には南島と称される化外の地として登場する。753年に鑑真和尚の乗った船が、阿児奈波島に漂着した。通説では阿児奈波島は現在の沖縄本島である。八重干瀬という広大なサンゴ礁の岩礁に、多数の小舟で、宝貝の採集に集まっていたものと思われる。
古琉球の時代
長い貝塚時代のあと、12世紀前後からグスク(城砦)時代(12〜15世紀)とよぶ時代を迎える。グスク時代の遺跡から大量の炭化した米や麦、刀子など鉄製の利器が出土し、穀類栽培農耕の段階に入ったことがわかる。奄美の徳之島で製造される須恵器が沖縄・先島諸島に供給され、中国の陶磁器、日本製の滑石製石鍋も出土している。人々は石灰台地や丘陵地帯に居住し、天然の湧水を利用し水田をひらいた。沖縄では産出しない鉄が入るようになると、鉄器が使われるようになる。集落ができはじめると、各地に按司と呼ばれる首長層が台頭した。按司はグスクを構えて相互に対立するようになった。その按司たちの抗争と結合の結果、いわゆる北山、中山、南山の政治的勢力圏が形成され三山時代になる。1429年、尚巴志による統一で琉球王国が形成された。グスク時代から琉球王国の成立をへて島津の侵入(1609年)までの約500年間を古琉球とよんでいる。
グスクの時代
沖縄では城のことををグスク、またはグシクと呼ぶが、城跡から生活跡や住居跡が出てくることから、グスク以前は集落、村落であった。村落であったグスクは、共同の聖域であり、御嶽である。グスクの語源に関する議論もあるが、グスクは御宿や御塞の意味が転訛したものであるとか、グは石、スクは聖域をあらわした言葉だとする考えがある。首里城をはじめとして数多くのグスク跡が残っている。グスクの本質は聖域で、そこを中心に城塞して発展したものと、拝所や風葬所へと変化したものにわけられる。
12世紀前後、背後の崖や山の上に住むようになり、農業を主とした生産がはじまる。これまでに沖縄でなかった鉄器が、海からの交易によって入ってきた。東アジアで鉄器が普及するのは、中国がもつとも早く、紀元前3世紀以降といわれる。日本でも弥生時代前期といわれている。中国で武器や農具として普及しきったころには伝わっていた。鉄器が入らなかった沖縄は、14世紀初頭まで神話の平和な島であった。鉄器が入ると、人の心も所有の欲望が増大してくる。鉄を与えて生産をさせる首長が発生した。村落発生の当初は、貧富や階級の差もゆるやかで、血族集団、血族をマキとよび、血族集団をマキョといい、その主家(根屋)が集落をまとめてていた。稲作農耕が定着すると、人口が増加し、共同作業を必要とする仕事が生じると、集落間の協力、提携が生じて、やがて大きな血縁集団ができた。こ血縁集団が「くに」とよばれる村落で、「くに」の指導者が有力者のなかから選ばれるようになった。
13世紀になると、有力な地域の首長が他のくにぐにを統合した。こうして生まれた指導者を按司と呼び、女性の按司はヲナジャラという。按司ば、攻防のための城塞として強固なグスクを築き、武力を背景に勢力圏を拡大し、他の生産地を奪い領土を広げる争いをして小国家を形成するようになった。
御嶽
沖縄には、那覇の園比屋武御嶽石門、糸満の白銀堂などの有名な御嶽がある。御嶽は沖縄の島々の集落のあるところには必ずといっていいほどある。周囲9kmほどの小さな竹富島でも8ヶ所も御嶽がある。ウタキは、オタケとも呼ばれる。また、先島の方ではウォンとも発音されている。古代人アマミキヨが、はるか海上から知念半島のミントン城に生活の場を定めたいい伝えられ、そこから沖縄の人がひろまったという。城といわれる場も御嶽からはじまったものであろう。村落で祖先神や自然神を祀る聖地とされる。小高い丘の森にあるものが多い。社殿はなく、香炉を置いた拝所として、近年までは男子の立入りを禁じていた。御嶽の神は集落の守護神で、祭に天上または海上のかなたから飛来すると信じられていた。その日には女神官や村の有力者が参拝する。カムズ(神魂)といい、祭のカムズが下りると雨が降り、カムズがあがると西風が吹き始めて晴天がつづき、遠くに渡っていた船が還って来るといい、難船した者が遥かにこの御嶽に祈願して、つつがなく島に戻った話もある。開闢神話の久高島のクボウノ御嶽は特別の聖地であった。このクボウとはクバ(ビンロウ樹)のことをいう。今でもクバの樹があり、200平方mほどの広場の奥に御神体の石がポツンと置かれているだけで、あとは何もない空間である。岡本太郎氏は、御嶽のすばらしさに感激して「めまい」をおぼえたという。この神秘的な御嶽が沖縄のいたるところに、いまも生きつづけ信仰されているのは驚きである。
のろ(祝・巫女)
台風や旱魃、四季の移り変わりや疫病など、すべての自然現象を神のなせる業と考え、これらの災いに強く恐れをいだき、ひたすら神に祈ることだけが、人びとに与えられた唯一の道であった。この神が村落の御嶽とよばれる森に降臨する祖先神であり、海・山・水・火などのもろもろの神である。この神々を崇め、祈る祭事が豊年祭・種子取祭・シヌグ祭などである。時代とともに形が整えられ現在に伝えられている。この神たちを讃えて歌われたのが、ミセセルやオタカベの歌である。これを八重山ではニガフイチ、宮古ではニ−リという。村落の中央には、祭事の話し合いや祭事を行うアシャギとよばれる小屋が建てられた。祭事はセジ(霊力)をもった女性が受けもった。たとえば、兄弟をエケリ、姉妹をオナリといい、エケリが長い航海や危険な仕事に行く場合には、常にオナリがエケリのために祈り、その無事を守っていた。エケリが村落の支配者になると、そのオナリがが根神(血族団の祭祀を司る女)となり、村落全体の宗教的支配者・ノロ(祝女)となった。のろは祝または巫の字があてられ、神の言葉を宣る意味である。その発生は古く、祭政一致の集落生活時代からであるが、16世紀尚真王が中央集権後、宗教制度を統一整備したとき、王家の祭祀を司る女性の聞得大君を最上位に、その下に3人の大阿母志良礼をおき、各地に300余ののろを地域別に分担統率せしめた。のろには辞令書を与え役地を給するすることにした。のろは、稲麦の穂祭大祭をはじめ、集落の公式祭祀に集落の役人および根神などを従えて、神の鎮座する御嶽に詣り、「王家安泰、五穀豊穣、諸船航海安全」を祈る。聞得大君・大阿母志良礼は廃藩置県後いつのまにかなくなったが、のろは未だに現存している。
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