佐渡国 さど
新潟港の西方45kmの日本海に浮かぶ日本最大の島で、周囲217km、面積857平方kmにおよぶH字型をなしている。東北から西南に平行する二条の山脈からなる。越後に面するほうを小佐渡といい、背後の山嶺を大佐渡という。大佐渡と小佐渡の中間を国中平野といい、東西両端とも湾入して両津湾・真野湾をなしている。昭和27年(1952)千種遺跡が発掘されて弥生時代後期の農漁生活の跡があきらかになった。『記紀』で神代の大八洲生成の一つとして佐渡洲の名がある。佐渡の名については数説あるが定説がない。大化改新にはすでに一国を形成し、雑太・羽茂・賀茂の3郡に分かたれて22郷を有し、天平勝宝4年(752)渤海国の使者着いている。真野に国分寺跡から立派な瓦や礎石を残している。大佐渡の中央に標高1160mの金北山は島中の最高峰で、古くから山頂に金北山権現があり本地仏将軍地蔵と伝えられ、修験道の道場であった。鎌倉時代地頭本間氏が河原田の獅子城に、のち真野の檀風城に居をかまえ、天正年間(1573〜92)越後の上杉氏に滅ぼされるまで全島を支配して栄えた。慶長3年(1598)上杉景勝会津移封後は、豊臣・徳川氏ともに佐渡金山の重要性をみて直轄領とした。佐渡の産金は西三川の砂金にはじまるが、文禄2年(1593)の開発とされ、相川鉱山は慶長6年(1601)の開発で、大久保長安が指揮管理した。以来300年日本第一の金鉱として採鉱をつづけ、幕府の重要な財源をなした。佐渡鉱山の裏には多くの無罪の無宿といわれる者たちが江戸・大坂から送られ労働者水替人足にさせられ、安永6年(1777)以来、水替人足不足のため捕らえられ唐丸駕篭で送られ強制労働をしたのである。金山が盛況であったときは、相川町の人口が10万を越え、「佐渡の金山この世の地獄」
と歌にうたわれ、「三年水替すれば死ぬ」といわれるほど死亡者が出たほどであった。明治になって金山は三菱の手に移管された。佐渡は神亀元年(724)佐渡ほか5ヶ国が遠流の地として定められてから、流配となり承久の順徳上皇をはじめ、文永の日蓮、永仁の京極為兼、正中の藤原資朝、嘉吉の観世元清など数えきれなく、江戸時代になって慶安の乱に丸橋忠弥をかくまった大岡源左衛門をはじめ庶民にいたるまで多くいる。赦免になって還る者もあったが、多くは病死し、または島に土着した。観世元清配流のため今も佐渡には謡曲がさかんである。
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