土佐国 とさ


 大平洋に面する四国の南部、土佐、都佐という。『古事記』によれば、古くは建依別ともいう。縄文遺跡は、中部以西に片寄って存在しているが、弥生時代の出土品は西部から東部に移るほど多い。古墳は中東部の長岡郡南部に集中して存在している。『国造本紀』に祟神天皇の代に天韓襲命が波多の国 造に、成務天皇の代に三島溝杭命の9世の孫小立足尼が都佐の国 造になったことがみえる。波多は幡多郡、都佐は高岡郡以東といわれる。『日本書紀』天武天皇13年6月壬辰の条に、没海(地震)のことがあるが、白鳳の地震で、高知市の東部が陥没したようである。天武天皇のときに国 造にかわり、国司が派遣されてくる。国衙(役所)は南国市比江に置かれた。国衙と都を結ぶ道が南海道である。はじめ険しい四国山地の中央部をさけて、伊予経由の遠い道筋であったが、養老2年(718)、阿波から新道が開かれた。神亀元年(724)、流刑の制が定められたとき遠流の国になった。延暦15年(796)、四国山地を横断する北山越え道ができた。平安時代に7郡43郷、国府は長岡郡におかれ、国司として紀貫之は名高い。応天門の変(866)に連座した紀夏井、保元の乱(1156)の藤原師長、平治の乱(1159)の源希義、承久の乱(1219)の土御門上皇、元弘の変(1331)の尊良親王は土佐に配流された著名な人たちである。鎌倉時代になって守護・地頭が定められると、梶原朝景・佐々木経高・豊島朝経・三浦義村らか相ついで守護となったが、鎌倉時代末期、北条氏のものとなった。戦国時代になり勢力をふるった長宗我部氏・香宗我部氏などは地頭として勢力を築いた。天正3年(1575)長宗我部元親によって国内が統一された。西部の幡多郡は中世のはじめより一条氏の荘園で、一条教房は応仁の乱(1467)を避けて土佐の幡多荘中村に移り住み、4代兼定の子内政は、元親に追放され土佐一条家は滅んだ。元親は、阿波に侵入、つづいて讃岐・伊予に転戦し四国を統一したが、天正13年(1585)、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国を安堵されることになり、土佐一国内の経営に専任した。地検帳・掟書などが残っている。関ヶ原戦後(1600)、山内一豊が土佐20万石の国主となり高知城を築いた。2代忠義に仕えた野中兼山が経世済民に卓抜した手腕を振った。慶長17年(1612)、71カ条の法令、元禄3年(1690)に「元禄大定目」55類が定められ統治方針が規定された。天文年間(1532〜54)吉良氏の保護下に発祥した土佐南学は、闇斎学・谷派の学として結晶し、幕末土佐の精神的支柱となった。幕末には山内容堂・後藤象次郎らの先覚者、武市瑞山・坂本竜馬・中岡慎太郎らの志士が活躍し、明治維新の原動力となった。  高知県 四国山脈の障壁によりへだてられた南四国は、大部分が土佐国、すなわち高知県で、廃藩置県後、一時徳島県とともに、高知藩を改め名東県を形成したが、明治3年(1870)以後は高知県となった。昭和10年(1935)、土讃線の開通をみるまでは四国山脈の障壁により中央地域との接触は阪神市場を結ぶ海上交通のみによっていた。  高知県人の気質 むかし南海道に属し、南九州につながる地域である。県内は「いごっそう」という小セクショナリズムをつくる素地があり、頑固で強情、妥協性に欠ける勝気が特徴である。土佐には本当に豪放な人は少ないのだが、じつは案外小心な自分を飾ろうとする人が多いからである。むしろ虚栄心が強いタイプの欠点も少なくないが、明るくカラッとしていて、思いきりがいい。「土佐節」は安政5年(1858)ごろに流行し、明治維新前後にまず流行し、ついで明治24〜25年(1891〜2)、そして戦後の大流行にいたるまで「土佐節」「新土佐節」のブームがあったが、その世相はいっも暗いものが鬱積し、南国土佐の明るさに対する日本人の憧れがあった。



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