若狭国 わかさ
東西に狭長にして山岳をもって被われる若狭国は、耳川などの流域にわずかに帯状の平地があるのみである。縄文早創期・前期の鳥浜貝塚がある。古くから畿内を背景に漁業が発達したが、米の生産も自給に十分ではない。若狭の地名は允恭天皇のとき、大彦命の後裔の稚桜部臣荒砺命が国造となったので、その稚桜に由来するといわれる。若狭は京畿に近く、若狭国から北陸道は始まる。前方後円墳が8基あって、上三塚古墳は長さが80余mもある。天武天皇のとき郡を置くとともに遠敷・三方の2郡とした。若狭の国府は小浜市に府中の町名で残っている。天平宝字5年(761)正月に高橋人足が守となったのが初見である。延文3・正平13年(1358)鳥山光武が北朝から任官されるまで83人の守がみえている。鎌倉時代に最初に守護となったのは稲庭時定で、北条氏の得宗領になったり、足利氏の家臣支配されたりした。永享12年(1440)源義光の流れをくむ武田信栄が守護となり、9代130年小浜付近に居城し、若狭一国に威を振るった。室町時代の末、越前の朝倉義景に攻められ敗れたが、のち織田信長の支配となり、信長は丹羽長秀を若狭に封じた。浅野長政、木下勝俊と代わり、慶長5年(1600)関ヶ原役のあと大津より京極高次が移され若狭一円を領し、後瀬山にあった城を雲浜に移して小浜城を築いた。高次の妻は将軍秀忠の妻の姉であり、将軍家とは縁深く、寛永11年(1634)京極忠高は出雲・隠岐に23万石を与えられ松江に転じた。小浜は南北朝以来港湾都市として栄えた。その後に酒井忠勝は若狭国と敦賀郡・近江国高島郡をあわせて11万3500石を与えられ明治維新に至った。江戸初期には畿内と日本海を結ぶ結節点として組屋など有力な海運業者が活躍した。その後、西廻り海運の発達により中継港としての市況が衰微した。廃藩置県では、小浜県・敦賀県・滋賀県を経て、明治14年(1881)2月7日から越前国と合わせて福井県となった。
一の宮とは
旅の基礎知識
鳥 居
神と神社
物忌・禊・大祓
古代信仰
天津神
延喜式
祝 詞
神仏習合
神社建築
神楽
関西地球散歩より

お申込方法
ファックス申込用紙
